『「棘」と砂漠のノミ』で書いたが、能登半島沖地震報道について。
地震発生時には、被害の大きさが報じられなかった。そのことについて東日本大震災の時を思い出した。というのは、NHKは、津波が来たときの様子をヘリを飛ばし、タイムリーに報じた。その中継を見ている側は、恐怖や悲しみを共有できたのである。ボランティアは動き、著名人たちも炊き出しに駆けつけ、外国からも救助隊が来るなど、国民全員が被災者を救い応援し、復興を祈った。
しかし、今回の能登は異なった。
地震被害の規模が報じられなかったので、国民は被災者の苦しみや悲しみを共有できていないのだ。
情報を止めていた。しかしそれが大きな誤算だった。
津波の映像を慌てて流し出したのは1月8日である。
何かの情報操作があったはずだ。
東日本大震災の時に、なんとNHKが各制作会社やフリーのディレクターへの無慈悲なお触れを出したのだ。
概略を言うと
「皆さんが撮影した映像、または貴社が作られた震災の番組はNHKは買い上げません」というもの。地元のカメラマンが撮影した映像ほどリアルで強いものはない。また制作会社は皆、被災地に入って撮影したのである。それは買い上げないという御触れである。
この経験からすると、「映像一番はNHK,政治家一番は岸田」という構造があったのではないかと思う。
今、慌てて大規模な支援策を打っているが
時すでに遅しである。
岸田の前に現地に入った山本太郎議員は相当なバッシングを受けた。
大切なのは、NHKの尊厳と岸田の名誉なのだろう・・・・。 2024年2月25日
裏金問題でてんやわんやの政治家の皆さん。1979年このKDD事件があった時は、政治家だけではなく検察も接待や個人的に裏金を使っていた。それを告発しようとして大阪高検の三井環公安部長が逮捕された。
今も昔も汚職づけの霞が関界隈。
ふりかえってみれば、KDD事件でも、KDDが政治家のパー券を
購入していたというから、国民の税金で
持ちつ持たれつ、政策を行っていたことがわかる
〇NHKの番組 アーカイブで見られます
「官公庁の乱脈経理にも批判」
放送年:1979年
10月の成田空港での税関検査がKDD事件の発端となった。相前後して、鉄建公団(日本鉄道建設公団)や環境庁のカラ出張、大蔵省への料亭接待などが表面化し、官公庁の乱脈な経理が世論の強い批判を浴びた。KDDは国内でも装身具や絵画を買い集め、隠し回っていたことも分かり、事件は企業犯罪の様相を呈した。捜査当局はKDD本社などを密輸容疑で捜索。政治家のパーティー券を大量に買っていたことも明らかになった
パーティー券?
〇「KDD事件で板野学前社長逮捕」 放送年:1980年 NHK
"4月5日、KDD(国際電信電話株式会社)の、板野学前社長が業務上横領容疑で逮捕された。板野前社長がKDDの役員交際費資金を自己の個人的用途に供するため、約40回にわたり現金1,000万円を欲しいままに着服・横領した容疑での逮捕だった。
こう言うと皆さん怪訝な顔をする。そして口を揃えて言う「そんなことはない」と。しかし、石巻の津波の後のささくれた残骸の上に立てば、誰だってそういう思いをするだろう。
「家族、親戚、友人・同僚・・誰でも必ず身近な人が命を落としている」と言う。そして、何もない状況で、音楽や絵画や映画が何になるのだろうか?
音楽より水なのだ、パンなのだ。家や電気や水など生活の基盤があってこその文化である。
目の前を遮るものは何もない、津波ですべて流され荒涼とした地に立ち茫然とする。町のあちこちには、葬儀の立て看板が毎日立つ。 磐城市の体育館の避難所に歌手Sajuと揚琴奏者の郭敏さんと慰問に行った時のこと、体育館のエントランスで演奏を行ったが、被災者の皆さんは演奏を聴きに来ない。
子どもがそーっと見に来る程度だ。人々の心にまだ「音楽を楽しもう」という気さえ起らない。当然である。愛する人を亡くし、家も無く、将来の不安を抱え、そんな状況下で思った「文化で人は救えない!」と。
「つべこべ」変な言葉だ。「TsubeCobe」・・・。昔アメリカでディスコ「神風(Kamikaze)」に行った時、アメリカ人は「コーマコーズィー」と言っていた。これに似てるなぁ。まぁそれはいいけど、「つべこべ」は「あれこれ、理屈」の意味らしい。世の中理屈だらけで、特にコロナ禍で議員さんたちの銀座通いなどが問題にされていますが、「クラブのママの陳情を受けていた」とか言っていますが、全国民は「うっそ~」と思っている訳で、これこそ「つべこべ言わずに謝る」また自〇党も、つべこべいわずに議員を「処分」する。やんないんですよね・・と思えば、法律を決めるっていうのにデータや根拠は出さない。どうも今回のコロナ罰則問題。「コロナ感染者が病院を抜けだした例は1例」だという。こんな1例で法律ってできちゃうの?「罰則決めるんだから事例を出せ~」って厚労省に言ったんだろうね。そしたら1例でした。『国民を取締りたい』ための準備だったら、まっぴら御免!「まっぴら」という言葉も不・思・議💛
11月1日の銀座デモの時のこと。メガホンを抱えた右翼の男がデモ隊に、ヘイトスピーチを飛ばしていました。デモ隊の一人の男性が反応して、言葉で応戦。すると、右翼の男は、手を滑らせてメガホンを落としてしまいます。
ところが、後日聞いた話では、この右翼にデモ隊の一人の男性が『何かモノを投げつけた』とのことで、それに驚き右翼はメガホンを落としたとして、そのデモ隊の男性は逮捕されたとのことです。
ですが、右翼は手を滑らせてメガホンを落としています。しかもメガホンを落としたものの、故障はしておらず、再び、その右翼はヘイトを繰り返しました。この右翼の男・・・
「デモ隊参加者を逮捕させる」という目的で右翼はヘイトスピーチをするのかな?それが仕事なのかな?と思いました。しかし、警察官らしい男が「ものは投げてないよな!」と同僚か部下に話しています。するとモノを投げていないのに、投げたとされる男を逮捕したことになります。
ここ数日、「棘」告知映像のTwitterに、3名の貴重な書き込みがありました。
文章は1行か2行たらずですが、「ネガティブな書き込み」というものです。
誹謗中傷までいっていないので、まだヨチヨチ歩きのTwitterという訳です。
ひんしゅくや誤解を恐れずに言うなら・・・最初にその書き込みを見た時にびっくりして、その次に少し嬉しくなったんです。なぜって「これでいっぱしの映画になったんだ!」という感覚です。今まではインナーの皆さんに見ていただけているのだと思っていたのですが、この映画に反対する人も見てくれている。要するに、「棘」の告知映像の視聴者が増えていることが嬉しかったんです。やっと認められたんだな~。ということかな?。感謝です!
「徳之島はさぁ、何にも無いからいいんだよね」そう言うと、奄美出身の人がムッとした。ちょっと誤解を招いてしまったようで、慌ててフォローした。
天城町の平土野港には、何でも売っている小さな商店がある。そこでパンでも買おうと立ち寄ったところ、パンがない。実はパンはあったのだが、1か月とか2か月とか長期保存ができるパンがあった。
パンと言えば、焼きたてがいい。せめて朝焼いたものなど・・・。しかし、島には、この長期保存のパンしかないのだ。
思考が止まった。
今まで当たりまえと思っていた焼きたてのパン。今ではスーパーの中でも焼いていて、パンの香りに誘われて、つい買ってしまうことも度々ある。
だけど、ここにはない。ないのだ。
そう思うと、少し肩の力が抜けた。
今まで、美味しいパン屋やケーキ屋をあっちだこっちだと探しまくり、パンが焼ける時間に合わせて出かけたりする。そんなことにエネルギーや時間を費やしていたのかと思ったら、ばかばかしくなった。
台風ともなれば3日も4日も船は来ない。
パンも牛乳も来ないのである。
頭を悩ませずに「このパンでいい」のだ。そして美味しく頂く。
出来た時間をゆったり過ごすのもいい、哲学するのもいい。自分のために時間を使おう!そう考えたら気持ちもほぐれ、心が豊かになった。
今、コロナ禍で暮らしが一変。一変というよりぐるぐると360度、720度と回転して、昔に戻ったようである。
金を払えば何でも手に入る時代は消えて、ちまたは質素な暮らしに戸惑っているかのようだ。消費、消費に踊らされていた時代。それを、ごくごく当たり前に享受もした。そのしっぺ返しが来ているようである。
この写真は「キシュ島の物語」というイランの映画である。
イランの3監督が20分ほどの映画をキシュ島で撮影したオムニバス映画である。
イランの観光局が自由貿易の島キシュ島をPRしようと3監督に声をかけて、自由に制作させたもの。プロデュースは、モフセン・マフマルバフ監督。
そのマフマルバフ監督の制作現場に密着した。
キアロスタミもそうであるようにイラン映画は役者に素人を使うことで有名だ。そして制作スタッフは家族とキャメラマン含め数人の撮影チーム。
サンゴの島、キシュ島の夏は厳しい。木陰がないのでロケ車の微かな日陰に身を寄せて暑さをしのぐ。息子のメイサムがひっきりなしに水をスタッフに渡す。
あるとき、お盆の上に載っていたプラスチックのコップ、あのパーティーなどで使う、使い捨てコップである。その空のコップが風で飛んでしまった。風に吹かれ、くるくると遠くに飛ばされている。メイサムはそれを必死に追いかける。やっとコップに追いつき、そのコップを大事そうに抱え、ニコニコにして帰ってきた。
そのコップに水を一杯に入れて父、モフセンに渡す。モフセンは片手に水をためて顔を洗い、残りの一口を含んでうがいをした。そして残りの3分の1ほどの水でサングラスを洗った。
この一連の行為に、モノにあふれた生活に慣れていた私は驚き、同時に自分を戒めた。目からウロコという方が当たっているかもしれない。
コップ一杯の水の尊さ!こんなに大事に水を使っているのだ。
イランではスーパーのビニール袋が無い。使い捨てのコップも無い。娯楽も無い。映画の製作費も無い。政治的な映画は禁止。モフセンも若いころに反政府活動をして投獄。現在も海外に逃亡し映画制作をしている。まぁ不自由な国である。しかし不自由だからこそ監督の芸術性や表現など独自の発想が生まれるのである。
このキシュ島の物語「ドア」はモフセンの作品。家がなくなり、家の要である木のドアを背負って父親が旅をする・・・。なんとも奇妙な映画だが、モフセンの人間を見つめる温かさがにじみ出ている作品である。
今、コロナ禍で自粛だの、外出禁止だのとNOを突き付けられていると、イランの何もない豊かさを思い出すのである。
「キシュ島の物語」1999年
第1話 ギリシャ船 Le Bateau Grec
監督・脚本:ナセール・タグヴァイ
第2話 指輪 La Bague
監督・脚本:アボルファズル・ジャリリ
第3話 ドア La Porte
監督・脚本:モフセン・マフマルバフ
プロデューサー:モフセン・ガリブ 製作総指揮:モハマド・アハマディ
製作:キシュ・プロダクション 1999年/イラン/35mm/カラー/1:1.66/72分
協力:イラン観光局 配給:ビターズ・エン
きょうはパリ祭。フランスで231年前、革命が始まったバスチーユ監獄襲撃の日を共和国成立の日として祝う日。
1989年、番組企画でこのパリ祭を取材したことがあった。この6月4日は天安門事件があったばかりであっただけに緊張感があった。7月14日チュイルリー公園で政府主催の式典が行われ、取材することになったのだが、フランスの格差社会を目の当たりにして驚いた。
式典に参加するのは政府関係者と来賓のみ。我々も取材許可を取りながら、屈強な警官にあわや追い出されそうになった。運よく国土交通省のお偉いさんの名刺を出して、やっと中に入れたという。ハラハラドキドキものだった。
普段、観光客や庶民でにぎわうチュイルリー公園は、厳重なバリケードで周辺を囲み、市民は入れないようにしている。市民はそのバリケードの外の芝生で、座りながら式典(エッフェル塔近くなので、外からは見えないが)や花火を見ている。警官たちが周囲を警備。物々しい雰囲気に圧倒された。パリ市にバリケードってあんなにあるんだと感心するくらいの数だった。
今でさえ、日本もハードな取り締まりが日常化しているが30年前の日本といえば、警察、警備も少しゆるかったのかと思う。
市民革命を越えてきたフランスではあるが、まだまだ格差社会、貴族社会の根強さを感じた。
一方、この写真はポンピドゥーセンター前。地球がぽかりと浮かんでいる。芸術の都であるパリでは、このパリ祭に合わせてアートの祭典も行われた。
ここは元は、スラム街、そこを現代美術の拠点として開発。ここに限らず、旧市街や貧困層の住む地域を開発したら、そこに住んでいた人達は立ち退きになる。しかし、パリではその人達が住めるように、郊外に安価な住宅地を作り移住できるようにする。サンカンタン・イヴリーヌなんかもそう。そこにパリまでの高速鉄道も通す。もちろん今まで通りパリに通勤できる。
そういうところが日本と違うところ。本当の意味での市民の街づくりが行われている。7月14日になるとパリ祭を思い出す。
マイケル・ジャクソンのスリラーが流行っている頃始めてニューヨークに行った。しかし初アメリカは恐怖の連続であった。泊まったタフトホテルの部屋に泥棒は入るし、深夜のスーパー前では拳銃の撃ち合いはあるし、はたまたブロンクス地区では、車から悲鳴!女性を人さらい・・・とドラマに出てくるようなシチュエーションだ。
このブロンクスは、ブラザーたちが住むエリアで、もちろんイエローキャブも走っていない。さびれた街で、人々の生活は貧しく、夕食は一切れのパンを兄弟で分けて食べているほどだった。
五番街だの、ティファニーだの、ブロードウエイだのという世界はまったくかけ離れた世界であった。そんな格差のある社会に住みながらも必死に生きている人たちにとって、今回のジョージ・フロイドさん殺害事件は、人種を超えて怒り爆発。世界が動いた。
私は海外取材は多かったので、メキシコでは、子どもたちが目の端を指で吊り上げ、キツネ目のようにして「チャイニーズ!チヤイニーズ!」と言われたこともある。でも、そんなことは差別のサにも当たらない。空港税関で菊の紋章のパスポートを見せれば、たいがい笑顔で「良い旅を!」と言われるのである。
実は、日本人は本当の差別を知らない。本当の民主主義を知らないと言われる。確かに民衆の手で自由を勝ち取ったことがない。だからかどうか知らないが、香港の一国二制度を揺るがすような「国家安全法」に抗議する香港人のデモや、今回の事件も報道が薄いのである。一時は、まったくニュースから消えたこともある。
しかも、日本の報道はデモ隊によるショーウインドーを破って商品を盗むシーンの連続。「略奪」「破壊」「暴動」という側面ばかりを強調する。
ニュースを見る人々に対し「デモ隊は怖い」という意識を植え付けるようなメディア操作の政策である。ジョージ・フロイドさんの弟のスピーチもNHK報道は「君たちの悲しみより私の悲しみの方が大きい・・・」という内容で終えていて弟の真意をきちんと伝えなかった。本来は、その後のスピーチの素晴らしさだ「君たちは何をしている!こんなに悲しい私でも暴力は行わない。平和的にやろう!」というような内容だ。最近は、このくだりを強調しているので、やっと溜飲が下がった気持ちである。
美術大学の卒業旅行は、もちろん藝術の都、パリであった。パリからロアールまで美術館を回り、絵を描き、存分に藝術のフランスを満喫した。
しかし、想い出の中で一番記憶に残っていたのは、羽田に到着したときに、仲間の一人(男性)が税関で捕まったことである。理由は、1メートルほどの絵筆であった。これを税関は武器かなにか危険物と見たのである。
この筆は、宮殿や教会の天井を描く絵筆でパリの土産としては秀逸を思っていたのである。この絵筆の事件を思い出すたびに、宮殿の天井を描く画家を王が見て満足そうにしている図を思い浮かべるのである。芸術家には欠かせない存在パトロン。
レオナルド・ダ・ヴィンチに最後の晩餐を依頼した15世紀から16世紀にミラノを統治していたスフォルツァ家の当主ルドヴィーコ・スフォルツァが有名である。
パトロンは芸術家の資金提供だけでなく、芸術の良き理解者であり、芸術を庇護する立場にあった。王侯貴族と芸術家は主従、雇用関係ではなく、芸術を育む独特な関係であった。16世紀以降、パトロンなくして芸術は成り立たなかったともいえる。
フランスやイタリアを旅する時に宮殿や教会の壁画、天井絵を鑑賞するときには、パトロンが芸術作品を今に残した貢献者であることを忘れないで欲しい。0529
レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」 (1495年 - 1498年)
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院、ミラノ
【★「芸術」を庇護する(Patronage:パトロナージュ)者としてのパトロン(Patron)】
福の神は内へ、災厄をもたらす鬼は外への意。節分の夜、豆をまきながら唱える言葉。(大辞林 第三版)
4月25日品川にある東京入管へのデモ行進に参加してきた。このデモnおおよその主旨は理解しているが、いつものことながら事前準備なしのぶっつけ本番。この入管に1,000名近くが収容されていると聞く。母国に帰れない難民の人たち。そして就労で来た人たち。難民申請している人たちは強制送還させられないという法律があるので、ここに長期収容しているとのこと。 建物にデモ隊が手を振り、声援を送る。するとそれに応え、怒涛のような叫び声が建物全体から響く。涙無しではいられないなかなか辛い撮影だった。
介護施設や土木現場でよく見かけるのは外国人である。日本の若者はITに走っているから、3Kの仕事にはつかない。そこを外国人就労者が補っている訳である。
しかし感謝どころか酷い扱いを受けている現実に驚く。こういった現実に直面するたびに、思うのは明治期に街や港づくりのために外国から招へいした「お雇い外国人」のことである。
土木の仕事をしていると「お雇い外国人」という言葉によく出会う。明治期に、街づくりや港を作る際に外国から技師を招き入れて、新しい国づくりを実現した。日本人技術者は西洋の建築や土木技術を学び、日本インフラの基礎を作りあげてきた。横浜港しかり、「明治の三大築港」といわれる熊本県宇城市三角港もお雇い外国人にお世話になった。三角港は1887年オランダ人水理工師のムルドルが招へいされ、三池炭鉱の石炭輸出港として造ったもの。何年か前にここを訪れた時には、130年近くもたっているのにしっかりした石組み、しかも海水で摩耗したのが角がとれた石積みに感動したものだ。「明治日本の産業革命遺産」として、2015年7月に世界文化遺産に登録された。
しかし、外国から来た人たちの扱いの差は何なのだろう?と。技術であろうと労働力であろうと、外国人の力を借りていることには間違いない。技師は国賓扱い。労働者は犯罪人扱い。
国づくりに必要な人は内へ、必要のない人は外へ・・・・か。
江戸時代の儒者じゅしゃの言葉に、「鬼は外」「福は内」に語呂合わせした『遠仁者疎道(おにはそと)不苦者有智(ふくはうち)』(仁に遠き者は道に疎し。苦しまざる者は智有り)の言葉があります。仁(じん)に遠い人、つまり思いやりのない人は人の道に疎うとく、苦を超越した人は悟りの智慧を持つ、という意味ですが、奥深い教示です。 (臨黄ネットより)
昨年10月17日に武委員長が1965年に関西生コン支部を立ち上げた場所(現在は大阪西淀川区民ホール)で初めての上映会を開いてから、ちょうど半年がたった。この日は武委員長の公判の日であったので、昼まで傍聴して上映会場入りした。
9月に西山さんにチラシを見せたら、「この日、公判があるけど上映は夜だからいけるよ」。でも当日西山さんの姿がなかった。
後でわかったことに、西山さんは保釈条件で関西生コンの組合員と会ってはいけなかったとのこと。この日は、武洋一さんに来てもらう予定だったので、西山さんは来られなかったんだ・・・。なんという事だ。
そういうbadな出来事が多くて驚く。
しかし、しかしですよ。「公判」やら「保釈」とか一生使わないと思っていた言葉を使うようになる。これも驚きだ。
それから半年。いろいろな方々の協力を頂き、全国から上映会の希望を頂いています。「観客ひとりでも上映する」という思いは変わりません。
そして出逢いに感謝です。0322
関西生コンを支援する東京の会(3.15)だったか、最近知ったことに「産業民主主義」というものがある。巷では聞かない「言葉」だ。
どうも
イギリスのウエッブ夫妻が労働争議の意味を19世紀に定義していたということらしい。超簡単に言うと「賃上げなど最初に経営側と労働者で話し合い(団体交渉)をする。話し合いが決裂したら、労働者はストライキという武器、経営者はロックアウトという武器を使う」ということである。(間違っていたら指摘してほしいのですが)
それで、更にググると、「団体交渉」という言葉は、奥さんのベアトリス・ウエッブであることが分かった。
え?じゃあ、「産業民主主義」を提唱したのはウエッブ夫妻じゃなくて、奥さんじゃないの?
なんて、思いたくもなる。
ベアトリスポッター(旧姓・ポッター ) (1858年1月22日- 1943年4月30日)
グロスターシャー州スタンディッシュの村のスタンディッシュハウスで生まれました。ビジネスマンのリチャードポッターとリバプールの商人の娘であるローレンシナヘイワースの9人の娘の最後の1人です。彼女の父方の祖父はリベラル党議員リチャード・ポッターであり、リトル・サークルの共同創設者であり、それは1832年の改革法の創設の鍵となった。(wikiより)
シドニー・ウエッブ
(1859年7月13日-1947年10月13日)
1895年、彼はファビアン協会に遺贈された遺産を使用して、ロンドンスクールオブエコノミクスの設立を支援しました。彼は1912年に行政学教授に任命され、15年間務めた。1892年、ウェッブは興味と信念を共有したベアトリスポッターと結婚しました。彼女が持参したお金により、彼は事務職を辞任し、他の活動に集中することができました。シドニーとベアトリスウェッブは1913年にニューステーツマン誌を創刊した。(wikiより)
そういうことで「産業民主主義」は生まれました
奥さんのベアトリスに影響を受けた夫シドニーさんが結婚した時に、奥さんの持参金で仕事を辞めて労働運動活動に専念できたというご主人は幸せものでした。
産業民主主義
「産業の管理・運営に対する労働者の参加を,ある程度認めていこうという思想,およびそのような制度。論者により具体的内容は一定しないが,いずれも生産手段の所有の問題を回避する点に特色がある。19世紀末ウェッブ夫妻が,初めて用いたといわれる。第1次世界大戦前後に広く流行し,ヨーロッパでは改良主義的な意味の産業「社会化」と同義に用いられたが,アメリカでは労使協調主義という意味内容をもっていた。」(産業民主主義 : Powered by PukiWiki 1.4.7より)
0325
昨年、10月29日元国連難民高等弁務官、緒方貞子さんが亡くなった。
内戦が続くボスニアで防弾チョッキを着て視察する小柄な緒方さんの姿が今も目に浮かびます。
63歳で国連難民高等弁務官(UNHCR)に就任し、内戦や紛争による難民問題に体当たりで向かいあいました。「何も持たず、身を守る手立てもない」人々に手を差し伸べる緒方さんの存在は心の支えというか重しでもありました。
その緒方さんのインタビュー集「緒方貞子 ―難民支援の現場から」東野 真 (集英社新書)のなかに
行動のもとになっているエネルギーは何ですかという問いに
「怒り」かもしれない と緒方さんは答えています。
行動の原点は怒りなのです。「映画『棘』は何で作ったのか?」という問いを時々頂きます。アレコレ考えることなく、何かに駆られて作ったというのが真実なのですが、振り返ってみれば原点は理不尽からくる「怒り」なんだろうと思います。
そして、家族は武建一に会うこともできない、ましてや他人が勾置所という壁一枚越えられない、人間ひとりでは何もできないという無力感に襲われました。そんな中で作ったのが「棘」です。
緒方さんは人間に対する愛と情熱を捧げて難民問題に向き合ってきました。そんな姿が心の支えでもありました。
たぶん、これからも優しい頬笑みと凛とした防弾チョッキ姿の緒方貞子さんを胸に「怒り」を映像にしてゆこうと思います。
砂漠のノミ
これは、アラブ研究者から聞いたお話。キャラバンサライ、ラクダの商隊を砂の中でじっと待っているノミがいるそうです。いつ通るかもしれないラクダをじっと待っています。運よくラクダが通れば、エイッとラクダにしがみつきます。そしてラクラクと街に行く・・・・。しかしノミにとっては、一生ラクダが来ないかもしれない不安もあるはずだ。それなのに一縷(いちる)の望みを抱き、ノミは砂の中でラクダを待っているのです。
その研究者は何のたとえで言ったのかは忘れてしまいましたが、その砂漠の光景とノミの根性だけはずっと心に残っています。「あせらず、根気よく希望を持ち続ける」という意味なのか、勝手に解釈しているところです。